長宗我部
これは長宗我部家の家訓だそうです。
ところで、長宗我部家をご存知ですか?
珍しい苗字とその読み方で一度聞けば覚えるのではないでしょうか。
「長宗我部」(あるいは「長曾我部」)は「ちょうそがべ」と読むようです。実は私は最近まで「ちょうそかべ」と濁らないと思い込んでいましたが、子孫の方の本を読んで認識を改めたところです(汗)
さて、長宗我部と言えば、戦国時代一躍名を馳せた長宗我部元親、あるいは、その子であり大坂の陣で没した盛親あたりなら聞いたことがあるでしょうか。
もうちょっと詳しい歴史ファンであれば、戸次川の戦いで戦死した元親の長男信親や、長宗我部家復興の礎を築いた国親(元親の父)、香宗我部家を継いだ親泰(元親の弟)も知っているかもしれません。「信長の野望」でもこのあたりの人物は登場しますね。
この長宗我部家、元親没後、四男の盛親が後を継ぎますが、徳川家康と近づきになっていたにもかかわらず、いろいろ手違いもあって関ヶ原の戦いでは西軍につき土佐の国を没収されてしまします。
そして大坂の陣で豊臣家に味方しましたが、敗れてつかまり、京都の六条河原で斬首されてしまいました。その際、盛親は、帆懸舟(ほかけぶね)の家紋を描いた猩々緋(しょうじょうひ)の陣羽織を着ていたそうです。
ちなみに、緋色とは「やや黄色みのある鮮やかな赤」、猩々緋とは「緋色の中でも特に黄味がかった朱色」だそうです。真田幸村の赤備えは燃えるようなイメージですが、盛親はまた違った鮮やかさで戦場で映えたのではないでしょうか。
赤備えは、戦場でも特に目立つことから、特に武勇に秀でた武将が使うそうですが、武田の飯富虎昌・山縣昌景、真田幸村、井伊直正と聞くと、確かに!と思いますね。
話が逸れましたが、長宗我部家の家紋と言えば、帆懸舟の他に七酢漿草(ななつかたばみ)があります。
カタバミは、片喰とも書きますが、どこにでも見かける可愛らしい草ですよね。酢漿草と言う字からも想像できる通り、食べるとすっぱいらしいです。ビタミンCが豊富なことから海外では食べられる雑草と認知されているところもあるそうです。
なかなか日本では食べる習慣はありませんが、道草料理界(!)ではメジャーなようです。「道草を喰う」の著者である岡本信人さんが食べているのを昔映像で見た記憶もあったりします。
さてさて、また話が逸れてしまいましたが、盛親が六条河原で斬首されたとき、家系につらなる男子は処分されましたが、元親の弟・親房の家系が土佐の国を継いだ山内家で生き延び、今でもその子孫の方がいらっしゃいます。親房を初代として、第17代の子孫だそうです。
ただし、江戸時代においては敗者の家系。大っぴらに長宗我部を名乗れるはずもなく、姓を「嶋」に変え、名に「親」の字も使わず、ひっそりと我慢強く明治まで家系をつないだそうです。
さて、冒頭の長宗我部家の家訓。
家系をつなぐことを第一に、我慢強く世の流れに合わせて生きてきた苦労がにじみ出ているようです。
<参考>